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知床の自然と開拓 知床国立公園の岩尾別・幌別地区は、大正3年に開拓の鍬が入って以来、戦前・戦後を通して国の開拓計画によって、福島県や宮城県などからの入植者が開墾を試みた場所でした。しかし、この地区は、道路はもちろんのこと、水利も悪く、台地は転石に覆われ、入植地として最悪の条件だったのです。入植者たちはこのような環境の中にあっても、さまざまな工夫や努力によって農業を営んでいましたが、開拓政策や社会状況の変化等により、昭和50年頃までに、次々とこの地を離れました。(左写真:岩尾別台地の開拓風景) |
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知床国立公園の誕生 この間、昭和39年に知床は、原生的な自然の価値が評価され、我が国で最も原生的自然の価値を持つ地域として、全国で22番目の国立公園に指定されました。 その結果、秘境知床として一躍全国の注目を集め、特に昭和46年の「知床旅情」の大ヒットは、空前の知床ブームを巻き起こし、国立公園利用者の急激な増加を招きました。さらに、この頃「日本列島改造論」による土地投機ブームは知床にも押し寄せ、開拓跡地が不動産業者によって買収されはじめ、その面積は100haにものぼりました。(左写真:昭和43年国鉄斜里駅前(現在のJR知床斜里駅)) |
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知床で夢を買いませんか!「しれとこ100平方メートル運動」 開拓跡地は国立公園内とはいえ、一度不動産業者等に渡ってしまえば乱開発が予想されます。そこで、開拓跡地の保全、原生林の再生を夢みていた当時の斜里町長藤谷豊氏が、イギリスのナショナル・トラスト運動に注目し、昭和52年2月に「しれとこ100平方メートル運動」のスタートを発表しました。土地の買い取りや植樹費用等にあたる金額8000円を一口として、「しれとこで夢を買いませんか」のキャッチフレーズで寄付を募りました。この運動は、自然保護に関心を持つ全国の人々から賛同を得られ、また運動を支援する報道にも後押しされて、各地から寄附金が寄せられました。また、昭和62年5月には、参加者の名前を永遠に保存し、運動を紹介するために、「知床100平方メートル運動ハウス」を現地に設置しました。平成9年3月、運動参加者はのべ4万9,024人、金額では、5億2,000万円となり、「しれとこ100平方メートル運動」の目標金額が達成されました。また、これを機に、保全した土地の譲渡不能の原則を定めた条例を制定し、未来永劫この森を守り続けることを明確にしました。そして「知床100平方メートル運動」は、現在行われている新たな活動「100平方メートル運動の森・トラスト」へと発展を遂げました。 |
![]() 運動地の全景。海に面した台地部分が運動地。背後は知床連山。 |
| 昭和57年には、運動開始5周年を記念して、国内で初めてナショナル・トラストを考えるシンポジウムが知床で開催されました。このシンポジウムで「知床アピール」が採択され、その後の「ナショナル・トラストをすすめる全国の会」(現:社団法人日本ナショナル・トラスト協会)の発足につながるという、日本の環境保護運動にとって歴史的意義をもつ会議となりました。知床の運動は、自治体がすすめる、トラスト運動として、国際的にも注目をあつめ諸外国からの視察・訪問が相次ぎました。また、テレビ・新聞・雑誌など、様々なメディアで取り上げられ、運動は全国に拡大していきました。 さらに、昭和63年に斜里町が設立した知床財団(旧自然トピアしれとこ管理財団)は活発な活動を展開し、様々な自然体験学習を行っております。また、知床財団の調査研究や野生動物の保護管理活動も国内の自然公園ではトップレベルに達しており、世界的レベルの保護と利用のあり方をめざした活動を進めています。現在は、100平方メートル運動の森づくりの現地業務を知床財団に委託して行っています。 |
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![]() ミズナラの大木 |
目標金額を達成、新たな運動展開「100平方メートル運動の森・トラスト」へ 運動の順調な展開の一方で、「危機的」な状況に直面したこともありました。それは、昭和62年の「知床国有林伐採問題」です。知床において、林野庁の伐採計画が明らかになり、原生林を復元しようとしている隣の森での木を切る計画に抗議が殺到したのです。斜里町に対しても「伐採を許すな!」との声が、運動参加者をはじめ全国から寄せられました。残念ながら、昭和62年の春に一部伐採は強行されました。しかし、林野庁はその後の計画を断念し、平成2年に、伐採予定地を含めた知床の国有林を「森林生態系保護地域」として指定したのです。100平方メートル運動は、日本の環境行政や自然保護活動の進展にも影響を与えました。特に、環境省や北海道も国立公園内の民有地の買い上げを積極的に行うようになっています。 |